魚一・蓬莱吉日庵

魚一の成り立ち

創業100年を超える会社(商店)には必ず理念(哲学、思想、思い)がある。

創業明治34年創業

創業者 吉村 一(魚一初代) 月山から城が松江に移ったことにより広瀬より松江に。(松江藩剣道指南役の一人として) 明治維新により吉村一の父は侍職を失い、一は魚屋に丁稚奉公。 (松江八百屋町 町物語=白潟の巻=抜粋) 白潟豪商人のご贔屓により魚屋が仕出し料理を始め、魚屋・仕出し屋の兼業から料亭へ。 若槻礼次郎閣下に可愛がられ嫁ヶ島で酒宴を。閣下の所望により現在の島根町多古より嫁ヶ島に黒松を運ばせて植樹。(その費用は若槻閣下がお出しになったが、他言無用との指示が出ていた。) 新しいもの好きで、松江で始めてモーターボートを購入。不類の酒飲みで一生涯に百石(1升の1000倍)の酒を飲んだと言われている。浄瑠璃、謡いはプロ級で文楽より誘いがあったほど。

松江が産んだ偉人 元総理大臣 若槻礼次郎
四ツ手網漁をしている 初代 吉村一

屋号「魚一」の由来

ご贔屓筋の白潟豪商人より命名. 魚町の、魚屋の、一(いっつぁん)から「魚一」となった。

湖畔道路と魚一
吉村ヨシノ

吉村ヨシノ:松江に生まれ、または松江に縁のある各界の先覚者や、その時代に活躍した人々100人の業績を広く紹介した松江郷土館開催『松江あの人この人100人展』の1人に選ばれた。 松江商工会議所婦人部初代会長時代 玄丹おかよを顕彰 (白潟公園に顕彰碑建立)

昭和30年6月発刊「松江八百屋町 町内物語 =白潟の巻=」より抜粋

吉村の一(はじめ)さんの愛称で呼ばれた初代は俗にいう歳の神の生れ、十四才の少年時代榎小路は名代の魚屋岡田屋勝造方に奉公に出た。やつと二十三才のころ、主家を辞して三島邸の向いに独力で魚店魚一を開いた。間もなく老舗岡田屋が廃業したので、その得意先を一手に引受けさらに三成三郎兵衛邸を借りうけると、魚を行商にとどめてその豪壮な湖畔の邸を料亭とした。場所はよし、間数に不足はなし、一さんの商売上手もさることながら、一度に幸運が湧いて魚一の繁栄をうながした。 青年一さんは望湖楼の大助や佐藤清一郎と共に素人浄瑠璃の名人、千鳥座で堂々とのどを競つた。また井上中尉やスミスなどを松江に招いて宙返り飛行をさせ、こうした事が随分と商売上に役立つたという。今の地は昭和の始、勝部旅館を引受たものである。分限者と共にした魚町の盛衰はすでになく、新しいといつてもすでにのれんの魚一に変つてきたといえよう。

屋号「魚一」の由来

初代、吉村一(はじめ)は魚屋時代より白潟界隈の豪商に可愛がられた。白潟商家のお一人から魚町の、魚屋の、一さんということで「うおいち」という屋号を頂いたと言われている。

『歳の神』の風習は、小正月に門松、しめ縄、古いお札などを集めて行われる火祭りです。 今年のうちに集めておいた稲わらに火がつくと、餅やスルメなどを焼いて一年の無病息災と豊作を祈ります。

「歳の神」とは

小正月に町内各地で行われた「歳の神」。道祖神の一種です。 道祖神の源流は日本の神話です。伊弉諾尊(イザナギノミコト)が死んだ妻・伊弉冉尊(イザナミノミコト)を思って黄泉(よみ)の国に訪ねてみると、イザナミは世にもおぞましい姿になっており、地上まで出てこないよう杖を投げました。 その杖から成り出た神を「さえのかみ」といい、これが道祖神の由来だといわれています。 歳の神の火で焼いたお餅を食べるとその年の病気を祓うことができるといわれます。道祖神があるところでは、ほとんどの地域で行われているそうです。